2006年10月15日

屈原墓・屈原祠(中国湖南省シ目羅市・岳陽市)

皆さん端午の節句ってご存知ですよね?
日本じゃ子供の日と同じにされてて、ちまきを食べるあの日です。

もともとこの端午の節句というのは中国のとある故事から来ている
ものなんですよね。

中国の今から2000年以上前の戦国時代、群雄が
ひしめく割拠の時代です。

南方の楚という国に屈原という政治も文学にも優れた人物がいました。彼は国の為、幾度となく国王にこうあるべきだという旨の進言や書を提出したのですが、讒言にはばまれ次第に政治から遠ざけられてしまいます。

その後楚は秦により滅亡してしまいます。祖国が滅亡したことを知った屈原は国を憂い投身自殺をしこの世を去ったのです。

彼の愛国心や人柄を偲ぶ民が毎年屈原が死んだその日に、彼を記念して毎年色々な行事を行い彼の魂を慰めるというところからこの端午の節句というものは出来たんですね。

何と奇遇にも2004年の6月22日ちょうど、中国の端午の節句に屈原のお墓参りを
することが出来まして、人民から知られざる民間伝承を聞くことが出来ました!


★屈原が投身自殺したのはどこ?
今現在の湖南省(シ日)羅【mi4luo2】市西北に流れる(シ日)羅江
で彼は身を投げてこの世を去りました。(一番上の写真が(シ日)羅江です)

丁度彼が身を投げた辺りに彼を祭る屈子祠や屈原碑林があります。

※ちなみにこの河付近の風景すごくのどかで静かでめちゃくちゃいい環境でお勧めです!
★屈原民間伝承
今回自称”超級屈原ファン”(笑)を名乗る人民に幸運にも出会いまして、
彼から色々聞かせてもらいました。

屈原が河に身を投げた後、下流へ6,7キロ流れていったところで、何と川が逆流を
して屈原の遺体が身を投げた場所辺りに流れ着いたというのです。

迷信も非常に多かった当時のことを考えると、付近の人々は仰天したことでしょう。
これは何かの啓示だということで流れ着いた場所付近に彼を祭る祠を建てたと言われて
います。

その後彼の遺体は彼の子供たちによって埋葬されたのですが、
これまたすごい事実を知りました。

何と今現在の屈子祠近くに屈原の墓が27個もあるというんです!(ほんまかい!!)
彼の子供は男9人、女2人いましたが、屈原の死後彼の墓を誰かが壊したり荒らしたり
するのを恐れてたくさん偽の墓を造ったと言われています。

そのうち石碑などがあって一応政府の保護を受けているのが、
屈子祠近くの墓と鉄道近くの墓です。

私が実際に見たのは屈子祠近くの墓です。
元々この墓は道沿いにあったんですが、建物を建てるということで丘の上に移され
墓の規模も小さくなってしまっていました。

元々の規模は王様の墓クラス級だったとのことで、自称屈原ファンのおっちゃんは
興奮しながら(笑)教えてくれました。


★本物の墓はどこなん?

正直考古学的にもまだどれがどれだか分からないそうです。
しかし、彼の遺体が流れ着いた辺りに屈子祠があり、そのすぐそばにあるこの墓が
一番信憑性が高いように思われました。

この墓は27個の墓のうち最大規模のものだったということも考えると、不思議と
本当に彼の墓に来たような気持ちにさせられます。

今現在この墓は草が時期が時期だけに生い茂っていて、石碑すら見つけられない
状態でした。

おっちゃんは探しまくったあげく見つからなかったので
「見せることが出来なくてまことに申し訳ない!」を連発していました。
さすがに自称”超級屈原ファン”(笑)どうしても私に石碑を見てもらい
たかったようです。

久しぶりに熱血人民と出会い私も楽しかったです。
何が熱血?そんなあなたはこちらをどうぞ

★端午の節句に食べるものって何ぞいな?
まずちまき(中国語では綜子と言います)、これは必ず食べます。
他には桃色の包子(いわゆる饅頭)、梨等の果物が一般的です。

この日になると屈原を記念して上記のような食べ物を(シ日)羅江に流します。
これにより屈原の遺体を魚がつつかないようにする為だと言われています。

これもまた民間伝承からきているんですけど、ほんと色々啓示を含んでいて
面白いですね。

皆さんも機会があったら是非足を運んでみてください!!

■ ア ク セ ス ■


※写真は船ーの渡し場(屈原祠対岸から)です(肝心の屈原祠は写真の右手にあります)

(シ日)羅は長沙東バスターミナルから約2時間ほどで着けます。岳陽からも同じようにしてバスが出ていますよ。(シ目)羅市は岳陽市に属します。

(シ日)羅の中心バスターミナル(列車駅横)に着いたら、街の中心地あたりのバスターミナルから白塘行きか楚塘行きのバスに乗り、船の波止場近くのロータリーで降りると左手に屈子祠があります。

墓はそのロータリーを南に道沿いに1、2km歩いたところにあります。
墓自体はかなり見つけにくいので相当聞き込まないといけないかもしれませんね。

ちなみに屈子祠で屈原墓どこ?と聞くと鉄道付近の墓を教えられます。
その墓は祠から20km以上離れていまして、アクセスがかなり厄介かもしれません。
(聞くところによるとその付近は午後4時を過ぎるとバスがなくなるそうです)

市内からバイタクで行くのであれば相場は12元〜高くても20元。
(シ日)羅江付近はのどかでとてもいい景色ですよぉ〜♪


n2.jpg

↑(シ目)羅川


miluo1.jpg

↑(シ目)羅川の船渡し場


wedyunqi2.jpg

↑屈原を祀る屈原祠入り口。


wedyunqi3.jpg


↑遠くを見据える屈原の像。彼が見ていた未来とは。。。


wedyunmou2.jpg

↑屈原のお墓。草が生い茂りすぎて石碑が見つかりませんでした(笑)
posted by かてぃくん at 10:23| Comment(27) | TrackBack(11) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月07日

宋寧宗趙拡永茂陵(紹興)

今日も前回に続き南宋陵墓を紹介します。

今回は、宋寧宗趙拡永茂陵です。

紹興酒で有名な紹興市は杭州から高速バスに乗って一時間の距離。
そこから紹興県息のバスに乗り換え、後は”茶畑”めがけてバイタクなどで突進(笑)

nansou6.jpg

南宋第四代皇帝。

光宗の次男。
光宗が在位時に太子とされる。

即位後、趙汝愚と韓(イ宅)冑を任用したが、両人が激しく権力争いを展開。

宰相である趙汝愚は朱熹が謳う朱子学を用いて国政にあたろうとし、朱熹も彼を手伝い、韓(イ宅)冑を政治から廃除しようとした。

しかし、寧宗は趙汝愚を罷免し、韓(イ宅)冑に国政を委ねたのである。また、朱熹が展開する定理学を「偽者の学問」とし、彼や趙汝愚に同情するものを「反乱分子」とみなし、官僚への登用を禁止するとともに、科挙への参加も禁止した。(俗に言う「慶元党禁」)

(実のところを言うと、韓(イ宅)冑は岳飛と同じように金に対して徹底抗戦を訴えていた人物。寧宗もそうだったわけです。逆に韓ちゃんの方は、消極派(笑))

ところが1202年にこれを撤回、趙汝愚と朱熹の功績を称え、(すでに獄死した)岳飛を顎王に封じ、秦檜の封爵を取り消した。更に、金への投降派の意見を断ち切った。

しかし情勢は、そんなに悠長なものではなく、北伐したものの惨敗。韓(イ宅)冑は暗殺され、1208年には屈辱の「嘉定和議」を結ばされることになる。

1224年に寧宗は病死。

よく分からない皇帝。あれこれやることが変わってます(笑)逆に言えば、岳飛の汚名を返上させたのがこの皇帝だ、とも言えるかも。

posted by かてぃくん at 12:07| Comment(0) | TrackBack(0) | 宋・南宋 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月06日

北京景山公園から見る故宮と紫禁城

今日は、冬の北京からお届けする北京の世界遺産の一つ、
故宮の景色をお送りします。


大体故宮を参観した後は、たいてい皆さん故宮の北にある
景山公園に上って故宮の景色を眺める方が多いですね。

winter pekin.JPG

冬の故宮はまた一味違うものになっています。
どちらかというと冬の景色は絶景ですね。

雪があまりにすごいので、観光客の方は冬にはいかない
方が多いのですが、冬こそ是非景山公園から故宮を眺めて
ほしいと思います。
posted by かてぃくん at 14:43| Comment(0) | TrackBack(0) | | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年10月05日

河南省世界遺産洛陽市龍門石窟

今日は、河南省洛陽市の郊外にある世界遺産、
龍門石窟をお届けします。

ryumonsekkutu.jpg

北魏の孝文帝が山西省の大同から洛陽に遷都した494年(太和18年)に始まる。仏教彫刻史上、雲崗期の後を受けた、龍門期(494年-520年)と呼ばれる時期の始まりである。

龍門石窟の特徴は、その硬さ、すなわち雲崗の粗い砂岩質と比較して、緻密な橄欖岩質であることである。そのため、北魏期においては、雲崗のような巨大な石窟を開削することが技術的にできなかった。「魏書釈老志」にも、500年(景明2年)に宣武帝が孝文帝のために造営した石窟は、規模が大きすぎて日の目を見ず、計画縮小を余儀なくされた顛末を記している。

様式上の特徴は、面長でなで肩、首が長い造形であり、全体的に華奢な印象を与える点にある。また、中国固有の造形も目立つようになり、西方風の意匠は希薄となる。裳掛座が発達して、装飾も繊細で絵画的な表現がされるようになる。

最初期は5世紀末の「古陽洞」窟内に見られる私的な仏龕の造営に始まる。先述の宣武帝の計画を受けて開削された「賓陽洞」3窟のうち、実際に北魏に完成したのは賓陽中洞のみであり、賓陽南洞と北洞の完成は唐の初期であった。その他、北魏時期の代表的な石窟としては、「蓮華洞」が見られる。また、北魏滅亡後も石窟の造営は細々とながらも継続され、「薬方洞」は北斉から隋にかけての時期に造営された石窟である。

唐代には、魏王泰が賓陽3洞を修復し、褚遂良に命じて書道史上名高い「伊闕仏龕碑」を書かせ、641年(貞観15年)に建碑した。初唐の代表は、656年-669年(顕慶年間〜総章年間)に完成した「敬善寺洞」である。その後、「恵簡洞」や「万仏洞」が完成し、この高宗時代に、龍門石窟は最盛期を迎えることとなる。

その絶頂期の石窟が、675年(上元2年)に完成した「奉先寺洞」である。これは、高宗の発願になるもので、皇后の武氏、のちの武則天も浄財を寄進している。その本尊、盧舎那仏の顔は、当時既に実権を掌握していた武則天の容貌を写し取ったものと言う伝説があるが、寄進と時期的に合わず今では否定されている。また、武則天は弥勒仏の化身と言われ尊像としても合わない。龍門最大の石窟である。

武則天の時代には、西山の南方、「浄土洞」の付近まで造営が及んだので、武則天末より玄宗にかけての時期には、東山にも石窟が開削されるようになった。「看経寺洞」がその代表である。



観光は石窟の前を通りながら鑑賞するスタイルですが、
どちらかというと対岸から見る石窟の方が壮観です。

もともとその意図で作られたわけであって、
お金もかからずにただで見れて、景色も素晴らしいのに
誰も対岸から見ようとしないのは惜しいことです(笑)


洛陽の列車駅前から【龍門石窟】行きのバスがありますので、
それに乗れば30分もかからない時間で着きます。
入場料は高いですが、古代の技術に驚かされ感動すること
間違い無しです。

posted by かてぃくん at 14:49| Comment(16) | TrackBack(0) | 五胡十国 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月30日

宋光宗趙惇永崇陵

nansou7.jpg

■場所:浙江省紹興市紹興県皐埠鎮
■アクセス
紹興酒で有名な紹興市は杭州から高速バスに乗って一時間の距離。
そこから紹興県息のバスに乗り換え、後は”茶畑”めがけてバイタクなどで突進(笑)  解説南宋第三代皇帝。
孝宗の第三子です。

1171年孝宗に太子とされ、1189年二月孝宗から禅譲を受け、即位。年号を紹熙としました。

この皇帝かなりの問題児、というか手のつけられないほどの重病だったらしい(笑)。

彼が即位をしたのは43歳の時でしたが、彼は精神病に病んでいたもよう。もともと前皇帝の孝宗と仲が悪く、孝宗が重病にあっても、顔も見せなかったとか。

孝宗が病死し、葬儀を行う段階でも何も関与しようとせず、宮廷内は大パニックに。その後、あまりのひどさに家臣が皇后の許可を得て、彼に退位を迫り、彼の子供趙拡を皇帝とし、彼を太上皇とした。

その後の彼は、更にやばくなり、在位時代のことを思い出しては、独り言をぶつぶつと言ったり、突然泣き出して止まないといった壊れぶりを発揮(笑)。

1200年に亡くなる。
posted by かてぃくん at 20:52| Comment(0) | TrackBack(0) | 宋・南宋 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月24日

武威 雷台廟等

武威は甘粛省の省都蘭州からシルクロード沿いに
西方へ300キロ進んだ所にある中規模の町です。

その昔、漢朝の武帝がかく去病将軍に命じて西域を占領し、
漢朝の威厳が西域にまで延びた事を示すために城を建設し、
武威と命名しました。
 
今回は雷台廟とその墓、海蔵公園を紹介いたします。

雷台廟は長い間、城の南に位置していた高台の廟でした。

昔から少し土が盛り上がった場所は台と呼ばれ廟や将軍の指導
塔などが建てられたりしました。

ここは何かを祭る立派な廟があった様ですが、文革で壊され
今の様な殺風景な形になってしまいました。

ところが20年前にこの廟の下から墓が見つかりました。

恐らく4世紀頃の騎馬民族の諸侯ではないかといわれていますが、
文字がない為、いったい誰か分りません。


墓の主だった財宝は一部は盗掘され、
一部は博物館に保管されていると聞いています。


武威_雷台廟@.JPG

武威_雷台廟A.JPG

武威_雷台廟墓B.JPG



@は雷台廟の階段と入口、Aは廟の本殿、B廟墓は廟の下の墓の通路です。棺の場所は暗すぎで撮影できませんでした。

海蔵公園は城の南東に位置している公園です。

砂漠の地質で水が少ないこの地方では珍しく池があります。
昔はここにお寺がありましたが、今は面影しか残っていません。

甘粛省はインドから仏教を中国にもたらした時の通り道であり、
かなり有名なお寺が多数存在していたと見られます。


もしかしたら海蔵公園の寺も例外ではないかも?

武威_海蔵公園@.JPG

武威_海蔵公園A.JPG

海蔵公園@は泉の上の廊下、Aは
公園の前の牌楼です。

posted by かてぃくん at 09:04| Comment(0) | TrackBack(0) | シルクロード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月23日

武威(甘粛省)の城壁下町の写真

下町の写真は武威の旧城壁から眺めた時の写真です。

この辺りの町は泥と石と若干の木材で造られています。
この地方では石材は木材よりも安いので、石を多め
に木を少なめに使ってあります。

まるで蘇州と反対ですね。

見ての通り下町の一角にはもうアパートが建っています。
ひょっとするとこの下町の写真は既に遺跡になっているかも(笑)


武威はそんなに規模の大きい町ではなく、
市の財政もきついので、この規模の下町が
残っていました。(ラッキー)

また城壁は他の中国の都市には珍しく、
城壁は比較的残っていました。この一部をここに掲載します。


大雲寺は旧城壁に建つ寺です。
寺の大多数の建物は文革でなくなりましたが若干の
門と鐘楼は今でも残されています。

鐘楼は城壁の上にあり、ここで鐘をつくと何ともい
えない雰囲気が味わえます。
(私が行った時はできませんでした。)


武威_大雲寺@.JPG

武威_武威の下町B.JPG

武威_武威下町@.JPG

武威_武威下町A.JPG

武威_武威城壁@.JPG
posted by かてぃくん at 08:55| Comment(0) | TrackBack(0) | 城壁 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月22日

酒泉の遺跡

今日は酒泉市にある有名な清真寺とこの地域の名前の由来となった
泉である酒泉の写真をお送りします。

清真寺は中国のイスラムのモスクの事で、
12世紀漢族からイスラムに改宗した回族のお寺です。

清真寺は全国多くの都市に存在しますが、ここの清真
寺は他とは異なり木造の建物で寺の真上に塔が立っています。

表口のリリーフはイスラム式であたかも東洋と
中東が交じり合った形になっています。

@ひさし
A裏口
B本殿の真上の塔
の写真です。

これもシルクロードのお陰。
しかしこの清真寺は今は尼寺で男子禁制です。
だから外からしか撮れませんでした。

また、清真寺は市街地の南で酒泉の泉から
500メートルほどの所にあります。

酒泉はこの辺りを漢族が最初に平定した漢代の将軍、
霍去病がこの地を占領した時、
戦勝を祝って酒を泉に注いだのを記念して酒泉となりました。


今はこの町の名前にもなってしまいました。
ここは正に砂漠のオアシスと呼ぶにふさわしい場所です。


@泉の前、ABは泉周辺の庭園式建築です。
ここだけは蘇州の庭園と同じ雰囲気が味わえます。

ここが甘粛省の西域だとはとても思えません。

蘇州の川の水は汚かったけど、
ここは未だ工業化されてなかったので、水は綺麗でした。(02年の時)

酒泉_酒泉@.JPG

酒泉_酒泉A.JPG

酒泉_酒泉B.JPG

酒泉_清真寺@.JPG
posted by かてぃくん at 22:47| Comment(0) | TrackBack(0) | シルクロード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月20日

中国甘粛省の張掖の大仏寺とその近くにある八仙閣と下町

張掖の大仏寺とその近くにある八仙閣と下町を紹介します。

大仏寺は本殿にある大仏は中国でも有数の大きさをほこる臥佛です。
大きすぎで写真に入りきらなかったので、本殿の写真のみです。

張掖_下町の欄間@.JPG


また牌楼も有名で表と裏それぞれに模様があります。
今回送った牌楼の@とAの写真で風景や様子がかなり
異なるのが分かると思います。

大仏寺は張掖旧市街でかなりの面積を占めているので簡単に探すこ
とができます。

張掖_大佛寺A.JPG

張掖_大佛寺牌楼@.JPG

張掖_大佛寺本殿.JPG

八仙閣は下町にあった伝統的な閣楼建築です。
いわれは分りませんが古き張掖を偲ぶ建物です。

張掖_八仙閣.JPG

また、張掖地区はシルクロードで栄えたおかげで
砂漠ではなかなか見られない木材の建物を目にします。

恐らく古代、砂漠の特産のらくだや塩と
交換して木材を手に入れたと思います。


そして、木材を利用した欄間の建物をみることができます。
往事のシルクロード文化を垣間見ることができます。
posted by かてぃくん at 09:21| Comment(0) | TrackBack(0) | シルクロード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2006年09月19日

中国甘粛省張掖下町と鎮遠楼、西来寺

今日は張掖の明、清下町と鎮遠楼、西来寺を紹介します。

明、清下町は元の張掖の古い町並みをそのまま保護した区域です。
町の入口には中国特有の牌楼が建っています。

張掖_張掖明清下町.JPG

張掖_張掖明清下町A.JPG



私が行った時は、まだできて長い時間が経っていなかったので
素朴な町並みでしたが今後はしょぼい作品が並びそうです。

鎮遠楼は、張掖の町の中心部に聳え立っている町のシンボル的な
建物です。13世紀くらいに建てられました。
西安の鐘楼とは若干規模が小さくなりますが、似ています。

張掖_鎮遠楼@.JPG

張掖_鎮遠楼A.JPG


 
西来寺は、下町を歩いていてたまたま見付けたお寺です。
いわれなどは良く分りませんが、歴史のある寺なので送ります。
私が行った時は、住民の方々が多数、参拝に来ていました。


張掖_西来寺@.JPG
posted by かてぃくん at 09:54| Comment(0) | TrackBack(0) | シルクロード | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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